月下ノ舟ー詩を運ぶものたち

Gallery Kazuki Winter Selection

2025.12.5 (Fri) - 28 (Sun)

Gallery Kazuki winter selection
「 月 下 ノ 舟 /詩を運ぶものたち」
2025.12.5 [Fri] – 28 [Sat]
13:00 – 19:00 [水・木 休廊]

わたしが売っているのは アナタ 海の水です
わたしが運んでいるのは アナタ 海の水です
わたしが流している涙は アナタ 海の水ですよ

加藤笑平 | 川島桃香 | しらそうずたいき | 野間はるあき | 藤原収望 | 上田平歩樹

本展は6名のアーティストによるセレクション展です。

芸大生から独自の表現を生きる糧として追求する画家、映像やコミュニケーションアートを研究するもの、言葉を絵画やインスタレーションに変換する作家、様々な異なる背景を持つ若者たちが詩を通してギャラリーという一艘の舟に乗り込み作品を寄せた展覧会です。

どんな時間が出現するのか…
予測不可能なふくよかなメッセージの旅を愉しんでいただけましたら幸いです。

皆さまのご来廊を心よりお待ちしております。

香月人美
 


 


「おれはこの世界に愛をたしかめにきた」910×727×50mm


小さい時の井戸の感覚

 

加藤 笑平/Showhei Kato

作品は
観えないし、聞こえない、触れられないし、動かない。
温かくもないし、生きてもいない。
それでも、観たい、聞きたい。触れたいし動かしたい。
温めて、ぬくもり感じたりして自分の中で生きていく理由になっていく。
死にゆく全ての者たちを、死してもなお生き続けるものと観念を。
経験と体感を、重ねていくその、行為を。
めのまえに、あり、立ち上がってくる瞬間を見逃さないように、使える手段はすべて使って凝縮結晶化させて、溶けていく。
それは作品としてではなく、作品になったもの、といいたいだけ。かもしれない。
そんな日常の我が営みとその周辺にある、日々日常で通り過ぎていってしまうこと、気にも留めないようなもの、路上に落ちていて見過ごすもの、名称のない事象や現象がモチーフになり、画面上で関係性を持ち、展示会場に配置されたものとの間においてもその関係性は続きます。
この世、この世界をつくりあげ保っているのは、ほとんどが名前のつかないものだと、そう思っています。
私の中では、日本における妖怪、animism、山岳信仰、修験道などがそれに近いかもしれません。
その二元的ではない、あやふやだけど確かに既にここにあるものを描き、出し、拾うことで、様々な境界線を越えていけるような動きを表そうとしています。
通勤途中にスーツ姿でお地蔵さんに手を合わせるように。

〔絵画とインスタレイションについて〕
絵画作品は絵画としてだけでなく、構造物としても存在し、他の絵画やインスタレイション内の木材や言葉、映像や設置物などと共鳴し、関係性が重なっていきます。

“死によって生は支えられている”

鉱物や空気、微生物など本来“死”がそこにあるのかどうかさえ分からないものにさえ、<死>が溶け込んでいるという感覚になったりもする。
それは、悲しみや憂い、純粋で根源的な気持ちを呼び起こし、原風景へと導く要因となるのかもしれないし、時にはそれが今、自分自身の身体と精神が生きているということを実感させるかもしれない、ということだ。
そういった基本的ないわば下地のようなものがあって、そこから日々の様々な身の回り、環境に於いての現象からくる感情、景色、背景、情景、という芯から起こるものと、至極客観性をもった視点とが入り交ざって一つないしは多数の断片による一つの作品が(多数の点と線とその重なりが)うまれてきます。
 


 

こどうとことばとば《LivePainting》

虚構を君であると信じて疑わない限り、君は死なない  910×727×50mm

 
川島 桃香/Momoka Kawashima

川島桃香の制作は、「喪失が生じた後においても、実体のない他者を愛し続けることは可能か」という問いから始まる。
彼女の作品において「君」と呼ばれる存在は、もう二度と会うことはほとんど叶わない特定の個人に向けた呼称から始まり、徐々に喪失された他者全体の象徴として立ち現れる。その不在がどのように私たちの内部に留まり、変容し続けるのだろうか。川島は、記憶という不定形な存在の変貌を、絵画・インスタレーション・詩・テキストを中心とした表現によって表出することを試みる。

ジャック・デリダは『アーカイブの病』において「記憶は保存の過程で本質を失う」という逆説を指摘した。この構造は川島の制作と深く結びついている。「君」を記憶・記録しようとする行為は、同時にその本質を変容させ、あるいは喪失させてしまう可能性を孕んでいる。しかし、この矛盾に向き合い続けること自体を、愛するという営みのひとつとして捉えている。

また、テキスト表現においても「君」と「私」の対話や反芻の有限性を基軸に据えている。自身の言葉を絵画やインスタレーションへと変換することで、言語と非言語のあいだに生じる越境しきれなさを、「翻訳のずれ」として捉える。何度も言語と非言語を行き来することで、翻訳のずれが埋まったり、逆に広がったりする。その様が表象したい「君」の不在になるまで繰り返す。

近年は記憶の中の他者を縁取るために、防炎フィルムや防犯フィルムといった半透明〜透明な支持体を選ぶことが多い。これらは生存や防御に関わる素材であり生存を選択する者が手にするものである。作品は光源の位置によって表情を変え、ひとつとして同じ姿を保たない。こうした変化は、生存を選択し続ける限り変容し続ける存在のあり方を想起させる。一方で、防炎素材の上に油彩という可燃物を重ねる技術的な矛盾は、「君」を描き続けることそのものの矛盾を映し出している。

川島は、この逆説を抱えながらも「君」の不在を形にし続けている。形あるものとして留めようとすればするほど、作品は「君」そのものではなくなっていく。しかし、それでもなお、作品において「君」と名付け続けることによって、「君」を代替不可能な存在のことを信じていたいのだ。

2000 広島県生まれ

主な受賞歴
2025 「WIRED CREATIVE HACK AWARD 2025」グランプリ
2024 「Limelight 2024」 Under30部門 グランプリ
2024 「IAG AWARD 2024」入選
2022 「TURNER AWARD 2022」 未来賞
2021 「Light Art 21/22」 カタエ企画賞

主な展示歴
2025 「Art Fair Beppu2025」別府国際コンベンションセンター ビーコンプラザ(大分)
2025 「初恋メモリアル」根津カレーlucky(東京)
2025 「池袋回遊派美術展」自由学園明日館講堂(東京)
2025 「恋の画塾 成果発表展」 とりでアートギャラリー(茨城)
2025 個展「花葬 / 人間に愛されなければ、今もまだ生きていただろうか」OM SYSTEM PLAZA Creative Wall・OM SYSTEM PLAZA Creative Vision(東京)
2024 紫尾アートプロジェクト アーティスト・イン・レジデンス成果発表展「今この瞬間に私が、他でもない私が、ただ生きていることの弁証を君は何ひとつしてくれないけれど、君が生きてきたことの証明を、私は今ここで再生することができる。」紫尾神社(鹿児島)
2024 「SICF25」 スパイラルホール(東京)
2024 「空間彩添」 aL Base(東京)
2023 「A/B」 廃墟ギャラリー(広島)
2024 「IAG AWARD 2024」 東京芸術劇場 ギャラリー1&2(東京)
2023 個展「じゃあ、いくか?ああ、行こう。ふたりは動かない。沈黙。」aL Base(東京)
2022 個展「わたしは、海に、還った。」タメンタイギャラリー 鶴見町ラボ(広島)
 


 


二人の涙 F50 1167×910mm

しゃぼん玉 F20 727×606mm

 
しらそうず たいき/Taiki Shirasouzu

私の作品シリーズの根幹にあるのは、「この世は紙が重なってできるような、奇跡の繋がりで成り立っている」ということです。
私は、私たちの心や思想が形成される前の状態を、無地の紙(和紙)に託しました。これは、ジョン・ロックが提唱した『タブラ・ラサ(白紙)』のように、無限の可能性を秘めた、私たちの「知恵の器」です。
しかし、私たちは生きる中で、経験や外部からの影響という模様(ストライプや波紋)を、その白紙に重ねていきます。それらは多様な価値観や方向性となって、私たちの存在を形作ります。そして、その経験が生み出す「丸」は、私たちを行動へと駆り立てる純粋な動力源です。
私は、この一連の過程をキャンバス上の一本の流れとして表現します。

人生とは、無数の偶然と決断によって投げられ続けるサイコロであり、私たちの存在は、この危ういバランスの上で成立する奇跡的な一瞬に過ぎません。シャボン玉が空に散るように、命の終焉はいつ、どのように訪れるか、誰にも予測できません。
作品は、その不可避な運命に心を痛めた作曲者に捧げる鎮魂歌です。
しかし、同時にこれは「不甲斐ない私自身の切なるレクイエム」でもあります。
生命の尊さや運命の重みに直面した時、無力感や後悔の念が胸を締め付けることがあります。不器用な手で描かれた一つ一つのシャボン玉(サイコロ)は、この世界に生きた無数の「儚き白紙」の魂であり、その中に宿る光(目)は、時に抗えず、時に見過ごしてしまった、私自身の不甲斐ない選択をも映し出しているかのように感じました。
厚く荒々しいマチエールの中に、運命のサイコロが投げられ、経験が刻まれた痕跡。
この作品を介して、あなた自身の存在という「奇跡的な均衡」に思いを馳せると同時に、人間が持つ弱さや不甲斐なさにも、静かに向き合っていただければ幸いです。
 


 

 
野間 はるあき/Haruaki Noma

「十字路を渡ったとき、公園の角に、紅葉が植わっているのが見えました。その色がきれいじゃなかったんです。今年はそうみたいです。暖かい日が多かったじゃないですか、それが関係してるみたいで、たぶん」
「あの桟橋?かな?あのコンクリートの、海の上の、とこ、ぐらぐらしてた気もするんだけど、固定されてたんかな?されてなかった気もする、うー、ま、どっちでもいっか!」
人が過去の体験を思い出しながら話をしているのを聞いていると、詩を朗読しているみたいだな、と思います。そうした私的、詩的な記憶をつなぎ止めて、伝えたいです。忘れていく記憶もあるだろうけど、いつかのタイミングでまた思い出すかも。今ある記憶の内どの記憶が残っていくのかにも興味があります。でも、どうにかしてつなぎとめようとなんとかもがいたうえで忘れた方がおもしろいことになりそうなので、いいもがき方を考えています。いいもがき方を思いついたら、教えてほしいです。

先月大分県佐伯市にて製作した作品です。会場の壁に周辺の地図が描いてあります。
展覧会中は、この地図を起点にワークショップを行いました。来場者と一緒に30分から1時間ほど散歩をして、会場に戻ったら散歩メンバーに散歩中の記憶を思い出してもらい、思い出したことが起こった場所に釘を打っていくというワークショップ形式の作品です。
海沿いを歩いた時の景色がよかったという記憶とか、窓際の置物がなんか怖かったとか、色々な記憶が地図に打ち込まれました。
画廊画期ではこの作品の小型バージョンを展示します。
 


 

 
上田平 歩樹/Aruki Uetabira

色々な場所で表現する。
土地に根を張り、色々な関係性の中で少しずつ未知をこねる。
「身体表現、インスタレーション、映像、、、」分類する物差しが無い未開拓な表現を、パワフルに出力することを生きる糧にしている。緊張と弛緩の間の中で、臆病である自分とひたすら向き合い続ける。周りと溶け合い許容し続け、生き続けてしまう身体性との断絶を目指す。
2023年の春までは地元鹿児島にある、祖父母が暮らす「扇尾」という集落で創作活動を行ってきた。それ以降は拠点を東京に移し、ひたすら表現活動に勤しむ。
琵琶法師の如く。作品を育む。

赤土ヘソノオ
私はずっと血の繋がりという言葉が分からない。DNA鑑定の結果によって紐づけられた事実と言われればそんな気もするが、それだけではなんか居心地が悪い。自分の手のひらと母親の手のひらをナイフで切り開いて、比べてみたとしてもそこには痛みという共通項があるだけで、身体の痛みが共通項だとしたら、みんな平等にあるようでそっちの方が信用できるし、人類共通のDNAのようでもある。
私の祖父母が暮らす集落には”馬刺し峠”という峠道がある。村にはかつて多くの馬が生きていた。米を育てるのに役立つからだ。しかし、酷使しすぎると馬の脚に血が溜まる。その溜まった血をナイフで抜くための小屋があった場所こそ、その峠道だ。坂ををうねうねとした赤黒い血がゆっくりと流れている光景が祖父の語りから想起された。
以前その場所で“風の石”という作品を作ったことがある。その峠道の一角である竹林を開墾し、そこに眠る大きな石を御神体として祀った祠を作った作品だ。雑草を払うのも、低木を切り、竹を切り、地中に広がる根を掘り起こすのも全て家の納屋にある古く錆びた道具を使って行った。
夕暮れ時、竹の根を掘り起こすために、十数キロある金テコという鉄の棒をただ一心不乱に振り下ろしていた。その時、祖父がぼそっと言ったひと言が忘れられない。“お父さんも爺ちゃんもひいじいちゃんもそれを振り下ろしていた。表面の錆と農地は我々の血と汗で作られたんだ”。私はその言葉を聞いた瞬間、自分のヘソノオを生まれて初めてこの目で見た気がした。開拓し開墾するその道具に、覚えているはずももない母親の羊水の中で浮かび、母体と繋がる記憶が重なった。血の繋がりが地の繋がりによってあらわになった。
何か尖った物を土へ突き刺す。私はこの20年の間その行為を幾度ともなく繰り返してきた。ある時は、金属の農具であり、またある時は竹だった。”せっぺとべ”という鹿児島の祭りでは、大きな竹を全身で抱えて歩き回り最後に田んぼの中へと勢いよく突き刺す。この時も土地との繋がりを全身を持って体験した。
作品の中央には畑があり、鑑賞者は立体の中に座りロープに繋がれた竹を引いたり離したりすることによって、まるで餅つきのように中央の畑を耕すことができる。これは、自身の内部に広がる大地を肉体を限界まで酷使することによって把握し、その意識を今踏み締める大いなる大地のうねりとして捉えなおす、言うなれば鑑賞者の身体感覚を拡張させることを試みた作品だ。
 


 


體/大学に入学した。絶望した。體を描いた。 F20 727×606mm


道/まっすぐと進む生きる道 F5 727×606mm

 
藤原 収望/Mtomitsu Fujiwara

不器用に燃えている。
地球のデバイスじゃあ、収まらないような炎なのかもしれない!!!
———パトスを燃やせ!燃やし尽くせ!

名前のない“大きな影”を背負って生きている。
法律でも文化でも教育でも芸術でも測れない。もっとも強烈で、もっともプリミティブな何かを背負って生きている。
人間が人間になる前?まだ足りない。
宇宙が宇宙になる前から、纏わりついている大きすぎる影だ。

命が目の前で途切れたその瞬間、
地球は赤子の泣き声のように震え、
空気は鋼鉄のように冷え、
胸の奥で青い痛みが軋んだ。
「生きていることが罪なのか!」
「厭、違う!生きてたことが嬉しいんだ!」
と、爆発的に燃え上がる。

けれどその痛みの奥底で、
人間という存在はふいに裸になる。
役割も肩書きも歴史も剥がれ落ち、
一粒の震える魂として立ちすくむこともある。

筆を不器用に握るとき、
私はその裸の魂に直接触れあって形を変える。
キャンバスの白は光ではない。
それは、青空で壮大に爆発する為の滑走路だ!
描くたびに、私は自分の愚かさも、傷も、すべて差し出さなければならない。
そこまでしないと魂の声には届かないからだ。
藻がき苦しみやっと解放の糸口が見つかる。
いいか。そういうものだ!!!

システムは永遠に私たちを理解しない。
世界のルールは、魂の震えを測れない。
だから私は、絵を描く。
その枠を越え、誰にも触れられない場所へ行きたいんだ!

もしあなたがひとりで暗闇に沈む夜がきたら、
誰にも言えない痛みを抱え立ち止まったら、
どうか私の絵の中にある“震え”に耳を澄ましてほしい。

その震えは必ずあなたに語りかける。

「あなたの世界は、壊れていない!
あなたは世界から、見捨てられていない!
あなたの魂は、ずっとずっと燃えている!」

私はただ、あなたに声が届くまで描き続ける。
私の魂が尽きるその時まで、私は震え描き続ける。