本展覧会のレビュー記事がweb版「美術手帖」にて掲載されました!

「九州派 / 東京地方 突如来演 2020」展 – Gallery Kazuki | 画廊香月

「九州派 / 東京地方 突如来演 2020」展

The Exhibition of KYUSHU-HA

2020.12.7 [Mon] - 26 [Sat]

本展覧会のレビュー記事がweb版「美術手帖」にて掲載されました!

東京中心のアート界の構造に挑む。
山本浩貴 評「九州派/東京地方 突如来演 2020」

▽ Review Link ▽

https://bijutsutecho.com/magazine/review/23328?fbclid=IwAR0t1kQZ1oP9cHEhqLQ5Sg8C-XRrZurrJi0b4HcRrL9KEFqupc3kd_BP51c

 

 

 

「月刊ギャラリー」20211月号にて本展覧会の記事が掲載されました!
美の散策#1「前衛-不幸な時代の処方箋としての」
市原 尚士(ジャーナリスト)
 

▽PDF

ichihara

 

 

 

2020.12.7 [Mon] – 26 [Sat]
13:00 – 18:30  [日.水  休廊]

桜井孝身 / 尾花成春 / 磨墨静量 / 斎藤秀三郎 / 宮﨑凖之助 / 菊畑茂久馬

 

 

1956年、経済白書が「もはや戦後ではない」と謳い、時代は高度経済成長へ突き進んでいた。同時期、全国では安保闘争の嵐が吹き荒れ、九州では三池争議、労働闘争等の社会運動が熾烈を極めていた。そんな激動の時代、1957年《反芸術》《反権威》《反中央》の思想を掲げ福岡の地に突如出現した前衛美術集団があった。

1958年、東京都美術館で開催された「読売アンデパンダン展」に共同作品を出品するも出展拒否第一号の栄誉を(烙印)受ける。その後、幾度も銀座で展覧会を開いては「東京地方」へと殴り込みをかけ続けた前衛美術集団「九州派」。

折しもこの時代、福岡の地で生まれ育ち彼等の活動を目撃してきた縁は、62年の歳月を経て《九州派/東京地方 突如来演2020 展》を開催する運びとなりました。
本展覧会が、熱く燃えたぎる血潮に塗れた九州の若き前衛芸術家たちが駆け抜けた生の証、痕跡に触れるひとつの機会となることを希ってやみません。

香月人美

 

In 1956, the White Paper on Economics declared that it was “no longer post-war,” promoting high economic growth at that time. At the same time, a storm against the Japan-U.S. Security Treaty raged nationwide, and social movements such as the Mitsui Miike coal mine Struggle and labor disputes were extremely fierce in Kyushu. In such a turbulent era, there was an avant-garde art group that suddenly appeared in Fukuoka in 1957 with the themes of “anti-art,” “anti-authority,” and “anti-capital.” The group name is “Kyushu-ha”.

In 1958, Kyushu-ha exhibited there collaborative work at the “Yomiuri Independent Exhibition” held at the Tokyo Metropolitan Art Museum, however they were honored to have refused to exhibit it first. After that, the avant-garde art group “Kyushu-ha” held many exhibitions in Ginza, Tokyo, and continued to attack the “Tokyo region”.

At that time, I was born and raised in Fukuoka and witnessed their activities. 62 years later, I decided to hold the “Kyushu School / Tokyo Region Sadon Performance 2020 Exhibition”.

I hope this exhibition will be a living proof and trace of a young avant-garde artists belonging to the Kyushu-ha with hot burning blood.

Hitomi Kazuki

 

 

桜井 孝身
1928-2016
Takami SAKURAI
1928年 久留米市生まれ。(加筆)
1957年、オチ・オサムらと「九州派」を結成。
戦後、日本の現代芸術の大きな潮流をつくった「九州派」のリーダーとして、福岡から全国へ、さらにフランス・アメリカなど海外にも飛び出した。
読売アンデパンダン展、九州派東京展にも先頭となって参加し、「ネオ・ダダ」などとも積極的に交わりながら、前衛芸術の急先鋒としての「九州派」の存在を印象付ける。
1965年、サンフランシスコに渡り、ビートニクの詩人であるアラン・ギンズバーグやゲーリー・スナイダーと出会い、哲学的・宗教的な問題への関心を強く持つ。1970年、2回目の渡米、サンフランシスコで日本人芸術家共同体「コンニャク・コミューン」を創設。1973年以降フランスに渡り、以後、福岡市中心に、東京、パリなどで多く個展を開催。その生涯はドラマティックで、膨大で多様な作品はエネルギッシュで私達に表現の意味をたたきつける。

 

尾花 成春
1926-2016
Shigeharu OBANA
1926年、福岡県吉井町(現・うきは市)生まれ。
16歳より油彩画を始める。
戦後、自由美術展、福岡県展などで受賞を重ねる。
1957年九州派に参加。
九州派時代はアスファルトを使った抽象作品などを制作。「自画像」は1988年
福岡市美術館「反芸術プロジェクト九州派展」の図録表紙になっている。
後にインタビューに答えて九州派について次のように語っている。
「運動といえば一般的にそれは外部に向けてのものと受取れる。激しかった九州派の動きも他者から見れば美術の前衛運動として外部に向けたものとして映じたかもしれないが、私はむしろそれは己自身の内部に向けてのものであったと思う」
生涯、吉井町を離れず画業に勤しむ。
福岡市美術館、福岡県立美術館が作品所蔵。

 

磨墨 静量
1925-2001
Seiryou SURUSUMI
1925年 台北生まれ。
旧制五高理科甲類(現熊本大学)卒業後、国立福岡少年院法務教官として勤務しながら、独学で絵を学ぶ。幻想絵画のパウル・クレーを思わせる穏やかな画風が特徴。
1957年に九州派結成に深く関わり、アンフォルメル(非定形)の抽象作品で前衛美術の可能性を問い、グループ内で「アカディズム派」と呼ばれた。1959年には「グループ西日本」を立ち上げて、「九州派」から離脱。その後、斎藤秀三郎たちと「グループ西日本展」(西日本美術協会展)を開催する。
「九州派」の中でも異彩を放ち、穏やかな画風の作品から、墨を基調とした激しいタッチの作品まで、色と形をテーマにしてさまざまなアプローチで作品を作り続けた。
“叙情に安住するのではなく、画面を革新しようという気持ちをいつも持っていた” とされる。

 

斎藤秀三郎
1922-
Hidesaburo SAITO
1922 宮崎県⻄都市生まれ。
1957年に九州派に参加。
「文明」など社会的な批評を題材に平面、立体、インスタレーションを問わず、98歳となる現在でも作品制作を続ける。
キャベツをモチーフとした銅版画は、銅板全体に細かなひっかき傷を作り、その後、図柄の部分を削って刷るメゾチント技法による。
精密な作業が求められ、斎藤の場合、作品1点を仕上げるのに約3カ月を要するという。
世代が離れた作家たちの開く展覧会やイヴェントに、斎藤は高齢となった現在でも積極的に顔を出す。そうした姿勢により、年齢を感じさせない若々しい表現が生まれる。

 

宮﨑凖之助
1930-1989
Junnosuke MIYAZAKI
1930年 福岡県早良郡脇山村(現福岡市)生まれ。
県立中学修猷館を経て、京都学芸大学(現京都教育大学)特修美術科で彫塑を学ぶ。1956年から北九州市に居住し、県立小倉聾学校等で美術教員を務め、同時に「九州派」に参加。九州派解散以降も、芸術を生活者の視点でとらえるという思想を誠実に展開させ、1966年の初個展以降は、くすのきを主素材とした木彫作品を制作する。1982年福岡県文化会館で大規模な個展を開く。没後、1998年福岡県立美術館で初回顧展が開催された。

 

菊畑茂久馬
1935-2020
Mokuma KIKUHATA
1935年長崎生まれ。
1957年、「九州派」に参加、画家として頭角を現す。1958年より「九州アンデパンダン展」を主宰する一方で、1957年より東京の読売アンデパンダン展にも出展。
1961年には「現代美術の実験」展(国立近代美術館)の15人の出展作家の一人として選出され、1962年には南画廊(東京)で個展を開催。以後、前衛美術のホープとして注目された。1962年九州派脱退。1964年筑豊の炭鉱画家山本作兵衛の作品を知り衝撃を受け、当時ほとんど評価されていなかった作兵衛の作品を「美術」として評価する論文を書く。作兵衛の『筑豊炭坑絵巻』(1975年)の編纂に関わったり、1970年には作兵衛を東京に招いて自身が教鞭をとる美学校の生徒に作品を模写させたりするなど、作兵衛の絵の作品としての評価、ひいては世界記憶遺産への認定に大きな役割を果たす。福岡を中心に、数多くの公共空間に陶板壁画を制作。

 

石橋 泰幸
1930-2001
Yasuyuki Ishibashi
1930年 東京に生まれ。
1949年 福岡県立八女工業高校卒業後、西日本鉄道に入社。
1957年、「九州派」に参加。九州派の中心メンバーの一人。
九州派の前身である「ペルソナ展」に参加し、九州派という組織づくりの原動力となったのが二科展出品者の保野衛、桜井孝身、石橋泰幸、オチ・オサムの4人である。
桜井は「具体」の吉原治良のような絶対的なリーダーではなかったし、かれの行動と思想は九州派にとってプラス面だけを提供したものでもないだろう。しかし、この天性の組織家、行動家、教育者であり、社会的・生物学的共同体への飽くなき夢想家であり、攻撃的アジテーションと楽天的ヴィジョンを兼ね備えたこの基台の人物なしには九州派がありえなかったことは確かであろう。
詩人の保野は九州派の名付け親と考えられ、機関紙の初代編集長であり、初期九州派の方向づけに大きな役割を果たした。オチは「60年代前半の質を超えていた表現者」「反モダン・アートという主張をもっともよく具体化している作家」と評され、アスファルトなどの表現手段の実験、徹底した生活者の意識に根ざしたダダ的作品、オブジェへの展開、特異なミニマリズムへの接近などに見られるように、九州派的な作品の実験を先導した最重要メンバーである。組織家桜井と、前衛作家・オチのうち、どちらが欠けても九州派はもっと短命に終わるか、あるいは意義の少ないものになっていただろう。
石橋も最後まで九州派に属した、実験性と俗っぽさを兼ねそなえた代表的な作家であり、また桜井とオチの渡米後も九州にとどまり解体期の九州派を支えた。(九州派大全より)